2009年

ーー−2/3−ーー 安寿の思い

 
中学生の時のこと。国語の授業で森鴎外の山椒大夫が扱われ、テストで次のような問題が出た。
 
 「安寿は厨子王を逃し、安寿自身は死んで[ ]になろうとしたのであった」の[ ]に入る言葉は何か。

 後日、国語の授業で答案が返され、先生から解説があった。先生は、この問題の正解は[犠牲]だと述べた。そして思い出し笑いをしながら、「答案の中に、[ほとけ]と書いたものがあった。まあほとけになるというのも分からなくはないが、ここはやはり犠牲と書くのが正しい」と付け加えた。

 「安寿自身は死んで[ほとけ]になろうとしたのであった」

 生徒たちも、その珍解答を聞いて笑っていた。

 私は、隣の席の丸山君にこっそりと答案を見せて、あれは自分のことだと告白した。そして、「でも、先生は×ではなく△にしてくれたよ」と言った。

 すると丸山君は憮然とした表情になり、「それはおかしい。なんで君のは△で、ぼくのは×なのだ」と言った。

 彼が書いた答は、「安寿自身は死んで[死体]になろうとしたのであった」。

 丸山君は先生に問いただすと言った。わたしは子供心に、それは止めた方が良いと思った。その後彼に会ったら、先生から怒られたと、しょげていた。



ーー−2/10−ーー さらばブロアの騒音

 我が家のトイレは浄化槽である。その浄化槽には、空気を送り込むための小さなブロアーが付いている。付いていると言っても、ブロアーは浄化槽から8メートルほど離れた、母屋の軒下に設置されている。ブロアーから浄化槽までは、地中のパイプでつながっている。

 ブロアーは隣り合わせで2台あり、どちらも24時間動きっぱなしである。その音がけっこう煩い。機械的な騒音は大したこと無いのだが、震動が響くのである。ブロアーが載っているコンクリート製の基礎は、母屋の基礎と接しているので、震動が母屋の基礎に共振して、家の中まで響く。ブロアーに一番近いトイレから、勝手口、居室まで、一日中「ブーン」という音が聞こえる。

 こういう目立たない騒音というものは、けっこう神経をいらつかせる。施工した業者に頼んで直してもらうという手もあったろう。しかし、そこまでする必要もない、我慢すれば済むこと、として放っておかれた。そんな状態が、この家を建てて以来、19年続いた。

 気にならない時もある。逆に、気になって仕方がない時もある。たまらなく不快な気持が、周期的に訪れる。こんなに静かな場所に住んでいながら、何故四六時中騒音を聞かされなければならないのか。ときには激しい憤りを感じることもあった。それでも、決定的に大きな音ではないので、うやむやに気持ちを誤魔化してきた。まるで慢性病のような、たちの悪い症状であった。

 先日、何十回目かの不快のピークが訪れた。我慢ができなくなり、外に出てブロアーの前に立った。基礎を切り離せば共振が止まると考えたが、小さな基礎でも掘り起こして移動するのは大変だ。それは諦めるとして、別の手段は無いものかと思案した。もう一度ブロアーを見ると、基礎の上に載せてあるだけという事に気が付いた。これは意外なことであった。元プラント・エンジニアとしては、回転機はアンカーボルトで基礎に固定されているものという先入観があったのである。

 載せてあるだけなら、ブロアーの下にクッション材を敷いたらどうだろうと考えた。機械の振動を遮断する「防振ゴム」の発想である。

 そこで、工房から、厚さ3センチほどのスポンジ板を持ってきて、ブロアーと基礎の間に挟み込んだ。その厚さの分だけブロアーの位置が上がったので、パイプの接続部を少しいじって長さを調整した。

 その対策を施して、家の中に入ってみた。騒音は嘘のように消えていた。

 住み始めて19年目にして、ようやく不快な騒音から解放された。こんなに簡単に直るのなら、なぜもっと早くやらなかったのか、と言っても仕方ない。とにかく、完全な静寂を手に入れた喜びは大きかった。シーンと静まり返った部屋の中で、一人「よっしゃ」とポーズを取った。

 夕方、娘が帰ってきた。「家の中の重大な変化に気が付かないか?」と聞いてみた。その後、家内もパートから戻って来たので、同じ質問をした。二人とも言い当てられなかった。私が事情を話すと、「そう言われてみれば、そんな気もする」と、がっかりさせるような返事が返ってきた。この二人の住人は、あの騒音を何とも思っていなかったのだろうか?



ーー−2/17−ーー バレンタインデーの思い出

 先週の土曜日は、バレンタインデーだった。もはやチョコレートとは無縁の年齢になって久しい私であるが、若かりし頃を思い出すと、滑稽な出来事もあった。

 会社勤めをしていた時である。私の職場にいた若手男子が、悪戯を思い付いた。社内メールという、専用の封筒で社内に文書を配達するシステムを使って、男子社員にチョコレートを送りつけるのである。宛名は、男の筆跡ではバレるので、女子に頼んで書いてもらうという凝りよう。差出人の欄は、「T.K」というふうにイニシャルだけにした。もちろん架空のイニシャルである。

 それをいくつも作り、独身で、しかも浮いた話に縁遠いような男子に向けてばらまいた。

 綺麗に包装され、リボンを掛けられたチョコレートの包みは、封筒に入れられて、午前中に発送された。午後、メールが届く時間になると、社内のあちこちでニヤニヤしながら首をかしげる男子の姿が見られた。ある男などは、午後の時間ずうっと、社内の電話番号簿とにらめっこだったという。電話番号簿には、部署ごとに社員の名前が載っているので、それを調べて差出人の女の子を見つけようとしたのであった。

 ところでその晩、独身寮の黒板には、ゲットしたチョコの成績が掲示されていた。山本君=10枚、鈴木君=8枚、佐藤君=5枚、というふうに。もちろんモテる男が上位である。リストの下の方は、「義理チョコ1枚」とか、「一かけ」などという可哀想な奴もいた。そして一番下には「○○君=スタンプ台」という不可思議なものが有った。

 それもくだんの悪戯男が仕組んだものだった。その男、準備したチョコを使い切ると、職場にあったスタンプ台を綺麗な包装紙で包み、リボンを掛けて、○○君の元へ送ったのである。

 その○○君のようすを観察していた女子社員がいた。届くはずもないような男に、チョコらしいものが入った封筒が来たので、注目していたのである。

 ○○君は、差出人がイニシャルだけの封筒を、怪訝そうに開けた。そして、中からチョコの包みと思われるものが出てくると、ニヤッとしたそうである。が、包装を解いて、中身がスタンプ台であることを発見すると、ハッと驚いた顔になった。その後の○○君の行動は冷静で、それがまた見ていて悲しかったそうである。彼は黙って立ち上がると、その品物を女子事務員の所に持って行ってこう言った

「これ、職場で使って下さい」




ーー−2/24−ーー モノ作りの孤独

 
最近、知り合いの同業者と話をする機会があった。その人は、私の作品、アームチェアCatを見て、「よくこれだけ手の込んだ品物を作りますね」と感想を述べた。そして、「ボクも以前は同じようなスタイルの作品にチャレンジした時期がありましたが、手間が掛かり過ぎ、採算が合わないので止めにしました」と言った。

 12月の展示会へ現れた、見知らぬ同業者の場合は、もっとはっきりしていた。「私は、以前は椅子も作っていましたが、採算が合わないので、今は作りません」と言うのである。その木工家の現在のオハコは、ムクの大板を使ったテーブルのようだった。年に何回も展示会をやって、売りまくっているという。

 私が木工の道に入ってまだ間がない頃、ある先輩木工家がこんなことを言っていたのを思い出す、「ボクは売れる品物ではなく、良い品物を作りたいのだ」。

 それを聞いたとき、私はちょっと違和感を覚えた。売れる品物と良い品物が、どうして対極にあるものとして捉えられているのだろうかと。売れる品物は、何がしか良いところが有るから売れる。逆に、製作した当人が良いと思っても、さっぱり売れない品物というのは、やはり何かが良くないのである。

 しかし今となっては、冒頭に述べた二つの例を引くまでもなく、先輩が述べた事に、いささかの共感を感じなくもない。

 仕事だから、売れる物を目指すのは当然だ。売れる品物を開発するというのは、ビジネスの基本であり、一番重要なところである。先の先輩の発言は、売れる物を作り出せない職人の、やせがまん的発言と取られても仕方がない部分もある。

 とはいうものの、売ることばかりが先行すると、製作活動のバランスが悪くなる。手っ取り早く売れる物というのは、簡単に言えば、どこにでも有るような物か、奇をてらった物かのどちらか。つまり「売れ筋」である。しかも価格は低く抑えなければならない。それらの条件を満たすとなると、できる事は限られてくるし、出来上がる物もたかが知れている。

 一方、知り合いの同業者の中には、優れた品質で、しかも作者の個性が好ましい形で表れている品物を、比較的リーズナブルな価格で、数多く世に出している人もいる。そのような作家は、実際にはそうたくさんはいない。単品の木工家具作りという、言わば世間の認知度が希薄な分野で、それなりの活躍をするには、相当の才能と努力が必要である。

 好きな事をやって暮らしたいと思うのは誰でも同じ。しかし、なかなかそう上手くは行かない。逆に、好きな事だけでは退屈してしまう人もいるだろう。好きな事では暮らして行けなくなり、路線を転換する人もいる。身を落としたような仕事であっても、生活のためと割り切って目をつぶる。そんな仕事から生まれた製品が売れて、暮らし向きが良くなれば、そのスタイルが好きになることもあるだろう。

 結局は、全て個人的な事なのである。他人をうらやんでも仕方ないし、他人をけなして悦に入っても意味がない。売上げを伸ばすことに邁進する木工家も結構だし、芸術品のような作品に情熱を燃やす木工家もあっていい。要は当人がそれで納得をして、やって行ければ良いのである。その当人を取り巻く環境、例えば家庭の状況、健康状態、経済状態などは、千差万別であって、他人の知るところでは無い。

 小さい頃からの学校教育のせいか、同じ土俵で比較したがるのが、現代人の癖である。しかし、同じ人生は二つと無い。全ての事が個人的、個別的なのである。それは、死んでしまえば、周囲の状況とは無関係に、当人にとって一切が終了することからも理解される。遺族が葬式にあたって世間体を気にしても、死んだ当人には何の意味も無い。

 モノ作りというものは、人生そのもののようである。何をもって有意義とするかは、本人次第なのである。






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